特別講演
​~バイオバンクに関するトピック~

2022年7月8日(金)11:00~

細胞培養の歴史と細胞バンク事業の意義

History of cell culture and role of cell repository work

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​演者

中村 幸夫

Yukio Nakamura

国立研究開発法人理化学研究所

バイオリソース研究センター細胞材料開発室・室長

​座長

仲谷 博安

Hiroyasu Nakatani

株式会社ビジコムジャパン

 生物の最小単位は細胞であることを顕微鏡観察によって提唱したのはロバート・フックであった(1665年)。その後の細胞を用いた研究は、生物から取り出した細胞をそのまま活用することによって行われた。20世紀に入り、「細胞を試験管の中で生かしておけないか」という研究が始まり、1907年にカエルの細胞を試験管の中で生かしておくことに成功した例が発表された。先ずは、細胞を生かしておくための培養液(栄養素など)を開発する必要があったし、培養皿の中に細菌などが入り込まない工夫も必要であった。今日では、培養液の中に抗生剤を入れておくことで細菌の混入はほぼ完全に防げるが、フレミングによってペニシリンが発見されたのは1928年のことである。1912年、鶏の細胞を用いて試験管の中で細胞を増やす(細胞分裂を起こす)ことに成功した実験例が発表された。しかしこれは、細胞分裂をずっと維持できる方法ではなかった。1940年になり、マウス由来の「L細胞」という細胞株が作製された。無限増殖可能な不死化細胞株の誕生であった。1952年、人間の子宮頸癌細胞株「HeLa細胞」が発表された。これは、人間の癌細胞は培養を繰り返すだけで不死化細胞株になることを証明した世界初の実験例となった。尚、人間の正常な細胞(皮膚細胞等)は培養を繰り返すだけでは不死化細胞株にはならないことは、1961年にヘイフリックによって示され、今も不変の真理である。

 HeLa細胞の樹立を受け、世界中の多数の研究者によって多数の癌細胞株が樹立され、生命医科学研究分野において必要不可欠な研究材料の地位を獲得するに至った。培養細胞株の最大のメリットは、同じ研究材料を世界中の研究者が共有して使用できることである。それ故に、様々な細胞株が使用研究者から他の研究者へと、善意として、しかしある意味では無秩序に、世界中に広まることとなった。そして、この使用方法には大きな落とし穴が待ち構えていた。不死化細胞株の多くは付着性細胞であり、形態的には紡錘形を中心として極めて似通っており、即ち、形態観察のみで区別することは不可能であり、従って、誤認(取り違え)があっても気付かないまま、誤認細胞の使用が研究コミュニティに蔓延するという悲劇をもたらした。20世紀終盤から気付かれていた事実であるが、ハイスループットで検査する方法がなかった。21世紀に入り、世界中の主要細胞バンクが連携協力し、個人識別検査であるShort Tandem Repeat多型解析がヒト細胞株の識別にも有用であることを示し(2001年)、ルーチン検査として導入した。培養細胞使用研究の歴史における金字塔であると言える。

​略歴

1986年 新潟大学医学部卒業

1986-1988年度 信州大学病院内科研修医

1989年度 自治医科大学血液科臨床助手

1990-1993年度 理化学研究所研究員

1994-2001年度 筑波大学基礎医学系講師(1998-1999年度 メルボルンWEHI留学)

2002年度 理研バイオリソースセンター研究チームリーダー

2003年度から現職。

2013-2016年度 日本組織培養学会会長。